【大阪府 】 エンターテイメントの世界で生きる~西原昇さん(平成9年度1次隊/ジンバブエ/映像)[2011年7月15日掲載]


西原昇さん

ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)のエンターテイメント部門のユニット・マネージャーである西原昇さん(平成9年度1次隊/ジンバブエ/映像)は、7月の連休から始まる子どもたちに絶大な人気を誇るマンガ「ワンピース」ショーのリハーサルに多忙な日々を送っている。安全衛生の責任者であるため特にショーを盛り上げるパイロテクニック(花火)の管理には気を遣う。

ユニット・マネージャーの仕事は多岐にわたる。取材した日も西原さんは8時に出勤、パイロテクニック納品の立ち会いに始まり、9時に出勤してくるスタッフの勤務管理やメールの管理、10時からはスタッフとの面談、午後には社内昇格者の研修の講師、夕方からウォーターワールドのショーのリハーサル立ち会いと、息つく暇がないような1日を過ごしている。

ユニバーサル・スタジオは、アメリカの「ユニバーサル映画」の別名。西原さんがこの会社にいる経緯を辿るとこれまで映画との深いつながりを持った人生を送ってきたことがわかる。

高度成長時代、すなわちテレビ放送が大衆の娯楽の中心となり庶民が日常的に映像に接するようになった時代に西原さんは育った。高校時代、漠然と映画の世界に憧れていたが、進学した大学では映画とは関係ない分野を専攻した。映画への想いを断ち切れず、大学卒業後に上京して映画関連の専門学校で学び、首尾よく有名映画会社に就職できた。

映画会社での仕事は、編集。撮影で作りだされる膨大なカット(映像)を編集によってまとめ上げる。映画の成否が左右される極めて重要な仕事。編集の鬼と呼ばれた西原さんは様々な作品を手掛けていた。ところが入社7年目の1993年、会社が倒産してしまった。

アメリカでの挫折からの再起 

紆余曲折の末、映画の仕事を諦めきれなかった西原さんは、元の会社の人たちと渡米し、夢のハリウッドを目指した。だがすぐに映画の仕事ができるという甘い話はなかったため先ずは語学を学ぶという建前で学生ビザで入国し、英語の勉強をしながら日本の歌手やミュージシャンのプロモーションビデオ制作の海外ロケの仕事で食いつないでいた。

現地で知り合ったイタリア人の友人とともに作った自主制作映画を、かの俳優ロバート・レッドフォードが後押しする「サンダンス映画祭」に出品し、ビッグチャンスを狙ったりもした。アメリカで1年半頑張ったが、就労ビザを取得できないため色々な制約に縛られ思い通りに活動することができなかった。結局、挫折感を持ちながら帰国せざるを得なくなった。

日本に帰ってきた西原さんは、幼少時代からの友人が青年海外協力隊員としてアフリカのボツワナに行ったことを知った。その友人は大手都市銀行を退職して「経済」の職種で活動していた。帰国後の進路を見失っていた西原さんは協力隊に興味を持ち、調べてみると「映像」という職種があることを知った。

ジンバブエでの生活 


 

難なく試験に合格し、派遣国はジンバブエと決まった。配属先は首都ハラレにある情報省の外郭団体ヴィジョンバレー映画協会。当時ジンバブエでは、デンゼル・ワシントンがはじめてアカデミー賞にノミネートされた南アフリカのアパルトヘイトを描いた映画「遠い夜明け」のロケが行われ、人々の映画に対する関心が急速に深まっていた。撮影現場に携わったジンバブエ人もいた。現場経験を持つ人たちは、撮影現場での作業はある程度理解しているようであったが、しっかりとした技術は身についておらず西原さんが撮影や映像編集の知識と技術の定着を図るべく、何度もワークショップを開催して指導にあたった。

技術指導と並行して識字率の低い地方の農民などを対象とした啓発ビデオ作りにも着手した。HIV/AIDSの啓発や収穫された農作物を効率よく製粉する技術の普及を目指す教材ビデオなどを制作。仕事を進める中でどのアフリカ隊員も直面する、現地人の時間とお金にルーズなこと、そのために作業が遅延しがちになると問題に直面したが、合理性のみを追求するのではなく、現地のやり方にも配慮したスタイルで進められるようになった。

西原さんが住んでいた家は、「葬儀屋通り」と呼ばれていたところにあった。マラリアやHIV/AIDSなどの感染症で乳幼児はもとより、大人でも多く亡くなり、近所では毎日のように葬儀が行われていた。

「アフリカでは日常生活において人の死が間近にある。人は簡単に死んでしまうことを実感した。今を精一杯生きて楽しむジンバブエ人と、日本人の生き方や幸福感の違いについて考えるようになり、人生観が大きく変わりました」

新たな職場

 2年間の活動を終え、帰国後間もなく関西テレビ電気専門学校の講師となり、映像に関する基礎技術の指導にあたった。仕事内容はジンバブエのときと殆ど同じで戸惑うことはなかった。そうしたある日のこと妹から新聞の求人欄にあった情報を得る。東京ディズニーランドに対抗して、大阪市がテーマパークのユニバーサル・スタジオを誘致し、開設するに当たってオープニングスタッフを募集するというものだった。

アメリカ映画への挑戦に描いた夢に再挑戦できるのではないか、協力隊で経験したことも活かせるのではないかと思い応募を決めた。これまでの経歴も味方したのか採用され、エンターテイメントの世界に舞い戻ることができた。

ユニバーサル・スタジオでは来場者を楽しませる部門は乗り物中心のアトラクション部門と、様々なショーが中心のエンターテイメント部門に分かれる。西原さんは、エンターテイメント部門のマネージャーとしてスタッフの管理も担う重要な役割を果たすポストを務める。

一番気を使うのがスタッフにユニバーサル・スタジオのビジョンとミッションを理解し、身につけてもらうこと。映画は最高のものを作ることに集中し、完成させるプロセスが1回で終わるが、ショーは違う。日々、何回も同じショーを演じ、毎回パーフェクトを目指さなければならない。出演者は繰り返しショーを演じるが、お客さんにとっては初めてのショー。出演者のモチベーションを維持させることに心を砕いている。

「閉塞感すら感じる日本社会にあって、日本人はジンバブエの人たちのようにもっと日常を楽しんでほしい、映画もテーマパークも人が楽しむところ、みんなが楽しめることをしたい」 

表現することに心を砕け


大学での講義

テーマパークでの激務にも関わらず西原さんは社外での活動にも精を出す。

2000年から青年海外協力隊大阪府OBOG会の会長となり、協力隊事業の支援や帰国隊員の仲間と様々なことに取り組んでいる。地元の大学で国際協力の講座を受け持つことになり、講義もしてきた。自身も海外への想いを抱きつつさらに語学も磨いていきたいという希望がある。

映画をキーワードに様々なキャリアを経てきた西原さんは、“職業キャリア”について学んでいるうちにキャリア・コンサルタントの資格を取得した。

「帰国後は、あまり間を空けず早く行動してほしい。隊員時代に活動してきたことをきちんと整理して表現することに心を砕くことが大切。自分だけでなく仲間のためにも表現力を磨いてほしい」

青年海外協力隊の行く末も気がかりだ。事業仕分けの直撃を受けた協力隊事業は、きちんと国民にその成果を見せてきたのかという思いがある。協力隊発足50周年を前にもっと協力隊や隊員の価値を表現すべきはないのかと考えている。そんな隊員たちの経験を生かし、アピールする手助けをしたいと、映像のエキスパートは考えている。

 

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