【大阪府出身・沖縄県在住】 プロボクサー、スポーツライターを経て沖縄で理学療法士となった、上間伸浩さん(平成5年1次隊/パナマ/食用作物)[2011年6月15日掲載]


村にとけ込む上間さん(パナマにて)

子どもの頃から格闘技好き。極真空手の始祖を描いた漫画「空手バカ一代」にはまったのを皮切りに、高校では柔道部、大学では日本拳法部に入部。シュートボクシングにも挑戦しあらゆる格闘技種目に夢中になった。

協力隊を知ったのも格闘技雑誌から。トンガに理数科教師として派遣された隊員 中畑 要さんが現地のボクシングチャンピオンと試合をし、肋骨を折られながらも逆転KOで勝利したという記事に感激した。憧れのトンガ “理数科教師”ボクサーと同じ経験を自分の人生に刻もうと、当時農学部生であった上間さんは協力隊プランを立てた。


パナマのリングで

「途上国で農業指導をしながらその国の格闘技を覚える。タイならムエタイ、モンゴルならモンゴル相撲というように」

見事協力隊の切符を手にした上間さんは1993年、食用作物の職種でパナマの農村に派遣された。農牧開発省の支所に所属、化学肥料で荒れた土壌を改良するため、村内の農家に出向いて現地で入手しやすいトウモロコシやバナナの皮などを原料にした堆肥を用いて豆類や野菜の栽培を指導する活動を行っていた。

学卒直行で協力隊に参加したためか頭でっかちな指導をしてしまい、本当にこれでいいのかと悶々とする日々を過ごしていた。そんなとき、気分転換として何も考えずに身体を動かせる格闘技、ボクシングにのめり込む。

パナマはボクシング王国。しかし上間さんが住む村にはボクシングジムがなく、週末を利用して村から県都にあるジムに通い、首都で買ったサンドバックを使って村でも自主練習を続けた。村人たちも次第に一緒に練習するようになり、スパーリング相手も見つかった。試合の機会を求め片道5時間かけて首都の大会にエントリー。本格的なボクサー選手とのスパーリングをこなす上間さんのガッツが認められ、念願叶って試合ができるようになった。パナマでは7試合4勝3敗の戦績。県のチャンピオンとも戦い、最優秀選手に輝いた。

日本でプロデビュー、フィリピンで完全引退 


タイでの最後の闘い

帰国後は国際機関で働きたいという志を持っていたが、日本でプロボクサーになる夢を捨て切れなかった。ボクサーの寿命は短くこのときすでに26歳。大阪出身の上間さんは有名な「グリーンツダボクシングジム」に入門した。当時ジムには世界チャンピオンの井岡弘樹選手と山口圭司選手がいた。トレーナーはボクシング強国メキシコの偉大なチャンピオンだったヘルマン・トーレス氏。

興奮するとスペイン語でまくくし立てるトーレス氏の指導に、選手は意味が分からない。スペイン語ができる上間さんが通訳となり選手たちの練習が成り立つようになった。偉大なトレーナーの教えが間接的に上間さんへの指導となり自身のボクシング技術の向上に役立った。

入門2年後、トーレス氏は帰国、次に来たトレーナーはシリアのボクシング隊員であった津嶋義英さん。ボクシングに人生を賭ける熱い男の指導をうけるなか、ようやく上間さんにビッグチャンスが巡ってきた。

日本ランキング1位選手との試合。“なにわの武道館”とされる大阪府立体育館が会場。協力隊大阪府OB会の大応援団が見守る中、試合のゴングが鳴った。相手はイケメン選手で女性ファンの甲高い声援が舞う。ランク下と見てなめてかかってきたが、互角の戦いとなり観客全員が静まりかえる緊迫状態上間さんは偶然のバッティング(頭があたる)により、試合続行不能となり、レフリーストップで3ラウンドでの試合終了の結果、引き分け。非常に惜しい大戦を逃したが、下馬評を覆す大健闘であった。

1998年1月、ジムの会長が病に倒れ急速にジムの興行力が落ち、思うように試合が組まれず、30歳を超えた上間さんは日本でのプロボクサーから引退。通算15試合、8勝6敗1引分け。その後、ボクサーとしての死に場所を探し、日本のボクシング環境と異なるタイとフィリピンで再びプロボクサーとなった。日本の有力選手はコンディション調整のために東南アジアの格下選手と勝ち試合をする“咬ませ犬”があるが、上間さんはその逆。敢えて東南アジアの強敵と戦い、精根使い果たし納得のいくかたちで引退する道を選んだ。

「どんな選手が相手でも最終ラウンドまで戦い抜く」

東南アジアでの2試合目がタイで12回戦マッチ、最終試合はマニラで10回戦マッチを戦った。最終ラウンドダウンを喫したが、必死に立ち上がった。しかし、ただ立っただけの状態で、反撃の気力もない。判定負け。上間さんは最後まで信念を貫き通した。東南アジア滞在9か月で4試合4連敗。潮時と感じた32歳の上間さんは“あしたのジョー“の如く燃え尽きた。
元協力隊のプロボクサーは完全引退を決め、妻がいる東京に戻ることとなった。

職歴を書かない履歴書

引退後、静養を兼ねて上間さんは読書三昧の生活に入ったが、妻に食べさせてもらうばかりにもいかず、インターネットで仕事探しを始めた。プロデビュー後に練習の合間を縫って簿記資格をもっていたため、経理をキーワードに興味のある会社を探した。検索にヒットした会社は著名なスポーツライター二宮清純氏の事務所「株式会社スポーツコミュニケーションズ」。応募書類を出すと奇跡的に採用された。

採用の決め手は履歴書――。

上間さんは職歴を書かずボクシングの戦歴と試合内容を事細かに書いたことに、二宮氏の心が動かされたそうだ。経理として採用されたが上間さんの“ 戦歴書 ”が評価されたのか、編集者としての仕事もさせてもらえるようになった。

ライターとしての能力を磨き、格闘技の速報記事やスポーツ選手と企業とのタイアップ記事などを手掛けた。著名人のインタビューでは、サッカー日本代表ジーコ監督、プロ野球の野村監督、星野監督の話を直接聞く機会にも恵まれた。

順調にキャリアを積んできたように見えたが、スポーツ記事だけでは食べてはいけない。ライターとして独立する目途は立たず、考え込んだあげく原点回帰して「人の役に立つ仕事」という協力隊時代を思い出し、再び進路を変更した。

理学療法士への道


今帰仁村の病院で

当時2000年代前半は介護保険制度が始まったばかりの頃で、1年勤めたスポーツコミュニケーションズを辞めた上間さんは、介護ヘルパーの資格を取得。リハビリ分野の仕事について広く学ぶなか、最終的には理学療法士を目指すことを決め、34歳のとき大阪の看護大学に入学。背水の陣で挑んだ3校目の受験での合格。病院でヘルパーのアルバイトとともにスポーツ雑誌の記事を書く仕事をしながら学業と両立、1年の留年を挟み4年かけて卒業した。

2008年4月、理学療法士としてのデビューは以前のアルバイト先の病院にある介護老人保健施設。からだ全体の動きの可能性を広げるためにサポートするのが理学療法士である一方、何かの作業をする機能回復に主眼を置くのが作業療法士。この施設では主に作業療法士たちが従事し、理学療法士は上間さん一人だけ。リハビリの視点や方向性が異なる職場に違和感をもち、風変わりな経歴の新人理学療法士は次第に孤立していくようになった。

そんな時、沖縄に移住していた協力隊の同期から、今帰仁(なきじん)村の病院で理学療法士を募集している求人情報が届いた。実は上間さんの祖父が今帰仁村の生れ。ルーツの村に興味が湧き、2009年4月、思い切って先祖伝来の土地で理学療法士として働くこととなった。

「仕事は探すものではなく、与えられた仕事が天職だと思っています。はたが楽するのが『働くこと』なんだと」

仕事の後は三線(さんしん)を習い、ハーリーというドラゴンボートレースの漕ぎ手にも励む。琉球の文化に溶け込むと海洋民族の末裔であることを強く感じている。

「沖縄に住んでいい仕事をして、琉球文化を学んで満足している。でも、燃えるものが見つかったらここを出てどこにでも行きますよ」

ノマドな男は現在41歳。

職歴: 青年海外協力隊(食用作物/パナマ)、
     プロボクサー(日本/タイ/フィリピン)、
     スポーツライター、
     理学療法士。

資格: 簿記、介護ヘルパー1級。

趣味: 三線(さんしん)、ドラゴンボート、各種格闘技

もし今度転職するとなれば、会社のひとは経歴を見てどんな反応をしめすのだろうか。
展開人生 上間伸浩。意表をつくパンチのように、次に書く履歴書も巧みの技が輝いてほしいものだ。

 

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