【東京都】発災後「48時間以内」に全力を尽くす-市原正行さん(平成1年2次隊/バングラデシュ/家畜飼育)[2011年12月15日掲載]

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対策本部で医療チーム派遣業務に当たる
市原さん(中央)。3月13日

2011年3月11日、午後2時46分。東京・立川市にある、災害派遣医療チーム(DMAT)の事務局が入る建物も長い時間揺れ続けた。「遠く離れた場所で、かなり大きな地震が起こったと確信した」。DMAT事務局員の市原正行さんは当時を振り返る。

地震発生後、すぐに対策本部が災害医療センター内に立ち上げられ、被災地に緊急医療チームを派遣するための情報収集が始まった。約半年にわたる医療救援活動の始まりだった。

 

災害発生後の「48時間」以内が救命のカギ

自然災害や大規模事故などが発生した際、直ちに現場に向かい、災害や事故の現場で救急医療を行える体制を備えた災害医療のチームがDMAT(Disaster Medical Assistance Team; 災害派遣医療チーム)だ。

1996年1月に発生した阪神・淡路大震災では医療機関も被災し、多くの負傷者が診療の機会を得られなかった。もしこのときに救急医療の体制が平常のレベルで整っていれば、約500人が助かったとされる。その教訓から、厚生労働省により災害発生時の医療体制整備の検討が始められ、2005年にDMATが発足。2007年の新潟中越沖地震や2008年の宮城内陸地震などに災害派遣医療チームを派遣するに至った。

DMATの災害医療チームは、医師、看護師、業務調整員(医師・看護師以外の医療職もしくは事務職員)で構成され、各都道府県の病院ごとに設置されている。それが全国8つのブロックにまとめられ、そのトップに位置するのが、東京都立川市の独立行政法人国立病院機構災害医療センター内にあるDMAT事務局だ。

DMATは、立川市と兵庫県神戸市の2会場で、DMAT新規登録者向けの「養成研修」と、各ブロックごとに技能維持の研修や訓練を定期的に実施する。研修では、救命や応急処置、消防や自衛隊との連携など、専門的な医療技術や、DMATのしくみについての講義が行われる。平常時、市原さんは年間30回以上開かれる研修の講師を務め、全国各地で開かれる研修を回る多忙な日々を送っている。

2011年10月末現在、研修を修了したチームは全国468施設、922チームとなり、参加者は5,755人に上る。DMAT設立当初、目標として掲げた1,000チームにようやく近づきつつある。

国際緊急援助隊での経験

DMAT事務局に加わる前は、JICA本部内に事務局が置かれた国際緊急援助隊(Japan Disaster Relief Team; JDR)事務局に所属。海外での大規模災害発生時に救援活動にあたる派遣国際緊急援助隊チームの派遣業務に携わった。

海外での災害発生時に派遣される国際緊急援助隊には、民間の医療関係者から成る「医療チーム」、警視庁、総務省消防庁、海上保安庁のレスキュー隊員から成る「救助チーム」と、復旧対応策を検討する民間の専門家から成る「専門家チーム」のほか、大規模災害時に派遣される「自衛隊部隊」がある。

緊急援助隊事務局はいざという時に備え、チームが使用する機材の管理・点検を行うほか、救助チーム、医療チーム登録者向けの研修を年間を通じて実施する。さらに、救助チームは年1回、関係者を動員してのシミュレーションに基づき、実際のチーム派遣に近い状況下で36時間を超える大規模な「総合訓練」を実施する。

市原さんはこれらの業務に携わるほか、チーム派遣時には業務調整員として被災地に同行した。研修などでチーム派遣のシミュレーションを経験していても、被災地での活動では予期せぬことが多々起こった。初めて派遣された2003年のイラン地震・医療チームでの活動は「よく分からないうちに活動が終了した」と話す。だが、その翌年のインドネシア地震・津波の自衛隊部隊や2005年のパキスタン地震・救助チームなどで派遣され、業務調整員を務めるうちに、チームの活動を支える力を培っていった。

国際緊急援助隊事務局での経験を買われ、DMAT事務局に加わったのは2010年4月だった。日本の災害医療に携わる人材の多くは国際緊急援助隊医療チームとDMATで共通しており、全国で開かれるDMATの研修に講師として行くと、国際緊急援助隊で知り合った医療関係者に会うことも多かった。

そして、東日本大震災が発生

DMAT事務局への着任から1年になろうとしていた頃に発生した東日本大震災。甚大な災害発生時には政府が緊急災害対策本部を立ち上げるが、DMATも地震発生直後に対策本部を立ち上げ、チームの派遣態勢を整えた。市原さんの役割はその業務調整だった。

負傷者救命の可能性が最も高いのは、災害発生から48時間から72時間が目安といわれる。そこでDMAT事務局はチームの早期派遣に全力を尽くし、北海道・千歳空港、大阪・伊丹空港、福岡空港からの自衛隊機による輸送も活用した。そして、3月11日から16日までの間に、300以上のDMATチームを被災地に派遣した。

通常ならば、1チームの活動は48時間程度だ。しかし、被害が甚大な東日本大震災では通常よりも活動期間が延びた。その後、救命・応急処置を任務とするDMATは役目を終え、活動は全国からの救護班に引き継がれた。

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医療チーム派遣に当たる災害医療センター職員(3月13日)

活動はそこで終わりではなかった。3月16日からは、福島第一原子力発電所事故の対応のため、市原さんはDMAT事務局の医師とともに福島県に入った。原発から20キロ圏内は避難地域、30キロ圏内は屋内退避に指定され、30キロ圏内までにある医療機関はその機能を失いつつあり、病院ごと避難する必要が生じていた。22日までは福島県でその対応に当たった。その後は、国立病院機構により派遣される医療班の業務調整員として、宮城県や福島県で医療活動に加わった。

そして4月末には、福島第1原子力発電所対応のため、現地で待機するチームの派遣が始まり、市原さんは再び、立川のDMAT事務局でチーム派遣業務に当たった。常に1チームが待機し、1週間おきに交代のチームを派遣する。東京電力の工程表第1段階「ステップ1」が達成された後、待機チーム派遣も終わり、9月初旬にはDMATの活動がひとまず終了した。

協力隊で培った「調整力」

市原さんは家畜飼育の協力隊員としてバングラデシュで活動。その後同じくバングラデシュで、シニア隊員(注)、ボランティア調整員を務めた。

「隊員時代は関係機関とのやりとりが多く、そこで業務調整の能力が鍛えられた。それが国際緊急援助隊やDMATでの活動に役立った」と市原さんは話す。

災害救援分野において、 「調整員」はコーディネーターではなく「ロジスティックス」と呼ばれる。本来、ロジスティックスの役割は、物資管理を中心とするが、少数精鋭チームによる活動が多い災害救援の分野では、物資補給から活動の記録から、ときには通信業務まで、さまざまな業務を担当するようになっている。

市原さんが調整員として活動する際、もっとも重要だと考えているのは「調整員として任務を果たそうとするなら、目の前で動いていることより、一つ先のことを考えていかなくてはならない」ということ。例えば、チームの活動中ならば撤収を、研修中ならば終了後の活動を頭の中でシミュレーションするという。

調整員としてくぐり抜けた東日本大震災の救援活動。だが、今後、首都直下型地震や、東海、東南海地震の発生が予測されている。また、自然災害だけでなく、大規模事故発生時もDMATは医療チームを派遣するため、いつでも派遣の態勢を整えられるようにしておかねばならない。

「東日本大震災の活動を経て、DMATにもさまざまな反省点が見つかった。それを基に、活動能力を高めていくため組織づくりが今後の課題だと思う」。一人でも多くの人の命を助けることがDMATに求められる役割だ。より多くの人材を育成するために、これからも全国の研修を回る日々が続く。

注:シニア隊員は、青年海外協力隊員経験者を専門分野で派遣する制度。現在は終了している。

 

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