【神奈川県】「人づくり」という財産-中川一也さん(昭和52年度2次隊/電子機器、平成20年度4次隊/職業訓練管理/パラグアイ)[2011年9月15日掲載]

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かつてのカウンターパート、ムッティさん(左)と
中川さん(2010年)

30年前、初代青年海外協力隊員として派遣されたパラグアイに、中川一也さん(52年2次隊/電子機器)は、2009年にシニア海外ボランティア(20年4次隊/職業訓練管理)として再び赴任した。そして、共に汗したかつてのカウンターパートは、その後の活躍が評価され、組織内で語り継がれるほどの人物となっていることを知る。

 

二回目のボランティア先で

「以前、この国でJICAボランティアをされていたカズヤさんですね」

2009年、シニア海外ボランティアとして、協力隊員時代に派遣されていた司法労働省・職業能力開発局(SNPP)の地方支局に着任した時、中川さんは、多くの職員から、こう話しかけられた。アルビノ・オルティス・ムッティさんは、協力隊員時代、共に業務に奮闘した人物だ。しかしその後、彼の消息すら知らなかった中川さんにとって、SNPP職員の言葉は、ただ驚きでしかなかった。

もともと国際協力に興味を持ち、南米に憧れて自主的にスペイン語を学んでいた中川さん。青年海外協力隊には、大学卒業後に社会人経験を身につけてから応募した。1978年2月、2人の同期隊員と共に、パラグアイに渡った。パラグアイは、南米で初めて協力隊員が派遣された国だ。その後、ボリビア(注1)、ペルー、コロンビアなどが続く。3人の初代隊員は、多くの人々の期待を背に、この国にやってきた。

そして、司法労働省・職業能力開発局(SNPP)本局に派遣され、職業訓練校の「ラジオ・テレビ修理学科」の新規導入業務を任される。着任当初は、学科用の校舎どころか、カウンターパートとなる職員もいなかった。

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協力隊員時代の中川さん(左)とムッティさん。
アスンシオンのSNPPで(1978年6月)

孤軍奮闘する中、活動の成果を根付かせるには技術を伝える相手が必要だと感じ、SNPPにカウンターパートとなる職員の配置を依頼した。そして、講師兼カウンターパート職員としてSNPPが急遽採用し、紹介されたのが、オルティス・ムッティさんだった。中川さんは、30年前のこの出会いを与えてくれたSNPPに、今でも感謝しているという。

(注1) ボリビアとの隊員派遣取極は1977年に交わされたが、派遣が始まったのは、パラグアイより2か月遅い1978年4月。

参考:JICAボランティア事業「派遣取極締結状況」(JICAウェブサイト/外部リンク)

 

舌を巻くほどの交渉術

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ムッティさん(右)と中川さん(左から4人目)の下に
集まる職業訓練校の生徒たち(1979年12月)

2人が新規学科の立ち上げに注力する中、時折、SNPPから担当外の業務を振られることがあった。予算や人材などの問題を抱えて本来業務が思うように進まない中、中川さんは抵抗を感じたが、ムッティさんはむしろチャンスだと考えて仕事を引き受けようとし、2人の中で議論となることがあった。

ムッティさんは戦略的な思考を持ち、問題を巧みに分析してうまく解決する能力に長じ ていた。彼の作戦が功を奏して2人の業績が認められ、本来の業務がうまく動き始めるようになった。「仕事を進めるための交渉術や、どう人を動かすかといっ たことを、彼から学んだ。教えに行ったのに、それ以上に多くを教えられた」と中川さんは話す。

2年の任期が終わる時には、新規学科のカリキュラムや年間計画などのコースウェアの完成にこぎ着けた。開講をムッティさんに託し、中川さんは帰国した。

その数か月後、今度はムッティさんが日本にやってきた。1972年より神奈川県が実施する「海外技術研修員受入事業」の研修員として、日本の電機メーカーで技術を学ぶ機会を得たのだ。日本での滞在先は偶然にも、中川さんの自宅そばにある神奈川県国際研修センターだった。2人は交流を重ね、絆をさらに深めていった。

シニア海外ボランティアとして「恩返し」

それから20余年の年月が流れた。協力隊での経験を生かし、中川さんは、日本の電機メーカーの海外研修センターで開発途上国の電気通信技術者向けの訓練を担当していた。

「協力隊員時代は挫折と立ち直りの繰り返しだったが、あの時の苦労と経験があったからこそ、社会人として日本で働き続けることができた」。協力隊での日々 は、中川さんの「財産」となっていた。そして、「自分を育ててくれた中南米に、いつか恩返しに行きたい」と考えていた折、シニア海外ボランティアの要請に、SNPPの案件があるのを見つけた。迷わず応募した。着任後に出会ったSNPP支局員の言葉で、ムッティさんと2人で奮闘した日々がよみがえってきた。

日本での研修を終えてパラグアイに戻ったムッティさんは、大抜擢されてSNPP支局の立ち上げに尽力し、その功績が今でもSNPP内で語られていた。そして、中川さんとの仕事を通じて学んだことを、SNPPのスタッフに伝えていたそうだ。それを聞いたとき、「当時のパートナーを通じて、30年前の協力がSNPPの中で大きく育っていると実感し、万感の思いがこみ上げた」と中川さんは話す。中川さんは約30年間、毎年ムッティさんにクリスマスカードを送った。だが、返信が来ることは一度もなかった。シニア海外ボランティアとしての派遣が決まった年に送ったカードには、Eメールアドレスと、「パラグアイに行くことになった」と書き添えた。意外にも返信があった。中川さんは、到着日とフライト番号を返信した。すると、降り立った空港に、ムッティさんの姿があった。 

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アスンシオンのSNPPで(2009年)

空港での再会から、2人は旧交を温め始めた。首都アスンシオンに住むムッティさんからは連絡がくるようになり、郊外で活動していた中川さんは、出張のたびに彼を訪ねた。ムッティさんは定年を迎えていたものの、請われて現役を続け、教育省に異動してアスンシオン国立高等学校の校長になっていた。

同校はパラグアイの有名校だったが、近年は荒れ果て、校長を引き受ける人物がいなかった。そこで、教育大臣から同校に送り込まれたのがムッティさんだった。仕事は「学校の立て直し」。SNPP職員時代の経験を基に、学校が機能を取り戻せるようにさまざまなアイデアを試していた。問題がある生徒がいても、退学にはさせない。怒らず生徒を信頼するところから始める。「何が問題か」「それにより、どんな不利益が起こるか」を相手に理解させることで、ムッティさんは学校の問題を解決していったという。

アイデアの一つに、クラスの「色分け」があった。校内では机やいすが勝手に移動され、数が足りずに授業が始められない事態が頻繁に起こっていた。クラスの 「色」を目印として付けておけば、どこに戻せばよいかがすぐに分かる。「これはモノを『見える』ようにするためのアクションだ。モノが見えるようになるだ けで人の気持ちは変わる」と話すムッティさんから、中川さんは問題解決のヒントを得た。30年経った今回も、会うたびに、彼から学ぶことが多かったたとい う。

また、ムッティさんは、日本で学んだ「こころ」を今も職場で実践しているという。それは、来客へのもてなしだ。客が来るたび、自らお茶や水を運び、「これは日本で学んだ『美しい習慣』だ。お茶に込められた思いやりの心を感じてほしい」と、説明するという。

「人づくり」は大きな財産

2011年3月、任期を終えて中川さんは帰国した。ムッティさんとの再会をはじめ、二度目のボランティア活動を、「日本の国際協力や、神奈川県が実施する海外研修招聘制度の意義深さを改めて認識した」と振り返る。

任地は今、どうなっているだろうか――かつて情熱を注いだ地に思いをはせることはあっても、再びそこを訪れる機会は、そう簡単には巡ってこない。しかし幸いにも、再びその地でボランティア活動をする機会を得、若き日の活動が実を結んでいることを目の当たりにした中川さんの経験に、途上国で奮闘した経験を持つ者ならば、何らかの「思い」を感じずにはいられないだろう。

 

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