#08 マヨヤオのドジョウ(2015年11月11日掲載)

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ドジョウは“ジャパニーズフィッシュ”と呼ばれる

はっきりしたことは分からないが、昔からフィリピンにもドジョウはいたと思われる。しかし食べる習慣はなかったようだ。

第二次世界大戦時、日本軍がこの地でドジョウを捕って食べていたといわれている。当時の日本軍には食料の補給がなく、現地で調達するしかなかった。そのために軍票を兵隊に配り、それで現地の食料を買い上げた。時には現地通貨の偽札を作り、それを兵隊に配ったりした。しかし、そんな軍票や偽札を現地の人たちがどれだけ信用したかは分からない。仕方なしに食料を分けたのかもしれない。

現地の言い伝えによると、日本軍の食料は相当不足していたようで、日本兵の大半が飢えと病気で死んでいったという。あるフィリピンの老人は、「日本兵に、あまりにも病気が苦しいので、軍刀で殺してくれと頼まれた人もいる」と話す。そんな状況だから、日本兵はドジョウでも何でも口にしたに違いない。それを見て、現地の人たちは「ドジョウは食べることができるのだ」と認識した。だから、ドジョウのことをジャパニーズフィッシュと呼ぶようになった。

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田んぼでドジョウを捕獲するシーンの準備

もう一つ説がある。ドジョウを持ってきたのは日本軍ではなく、フィリピンに移民してきた日本人たちだという。マニラからバギオへは立派な道路が通っている。開発責任者の名前をとり「ケノン道路」と名付けられている。山間部の道路建設は難渋を極めた。米国人は日本人の勤勉さに着目し、移民労働者を大量に雇用した。過酷な自然環境の中で犠牲者を出しながらも、道路は1905年に完成した。道路建設を終えた日本人の約半数はバギオやラ・トリニダッドに残った。その日本人たちがドジョウを彼の地に広めたというのが、もう一つの説だ。

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現地のドジョウ料理。フライにして食す

真偽のほどは分からないが、ドジョウがフィリピンのルソン島北部では高級魚として扱われていることは事実のようだ。ただ、近年、稲作で農薬を散布する人が増えたために、ドジョウが激減している。その辺の事情も日本と似ていると言えば似ている。現在、青年海外協力隊員が、ドジョウを復活させようと養殖に取り組んでいるのは、映画の中身と同じだ。

エグゼクティブ・プロデューサー  吉岡逸夫(昭和47年1次隊/エチオピア/映像)

(・・・続く)

 

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