「余計なお世話」は世界標準?(大槻一彦/H3年1次隊・ネパール・理数科教師)

ネパールへ来て半年ほど経ったある日のこと。首都カトマンドゥへ数ヶ月ぶりに出てきた。友人に会うため、待ち合わせの店へ急いだ。この街には珍しいマウンテンバイクで。渋滞する道を過ぎ、ちょっと緩和した道に差し掛かり、少し速度を上げた。と、突然狭い道から車が顔を出した。慌てずブレーキを握り、焦らずハンドルを切れば、十分に避けられると判断した。が、あいにくの悪路。小さな穴にでもはまったのか、砂にでもタイヤを取られたのか。横倒しとなり、道を滑った。

左半身を痛打したが、何とか立ち上がれた。自分の怪我を確かめたが、数箇所の擦り傷程度で、骨折などはないようだ。少しばかり落ち着いて周りが見えるようになって、驚いた。私の周りには、二重三重の人垣が出来上がっていたのだった。「大丈夫か」「怪我はないか」という心配の声もあれば、「何があったんだ」ととりあえず集まってきた人もいる。「私が怪我の具合を見てあげよう」と傷の箇所を熟視する人、「水で洗った方がいいぞ」と忠告してくれる人、ハンカチで拭こうとしてくれる人。「これを使え」と、絆創膏を差し出してくれる人。あっちではバイクを起こしながら、ちゃんと動くか確かめてくれている人までいる。恥ずかしいやら何やら。痛みも忘れ、一刻も早くこの場を離れたい。大きな声で、「大丈夫だから。大丈夫。大丈夫」と叫び、バイクを走り出させた。振り返ると、人ごみがゆっくりとほどけていった。

ネパールの人々の気質が分かり始めるに連れ、この日の自分の行動を恥じるようになった。なぜ、もっとしっかりとお礼を言えなかったのか。それどころか、この人たちの中には何か見返りを期待している人がいるのではないか、バイクを触っている人はバイクを盗もうとしているのではないか、私の中にはそんな気持ちもあったように思う。知らない人であろうと、心からその人のことを心配する。とりあえず人に関わり、自分にできることはないかと考え、良かれと思うことを口にする。『余計なお世話』という言葉があるが、本当に“余計な”お世話なんてあるんだろうか。この日を境に、ネパールの人々の中に入っていけるようになったように感じた。

私は2年後に帰国した。故郷へ帰る前に、身体検査などを受けるため東京に数日滞在した。新宿で旧友と食事をし、帰路途中の新宿駅構内でのこと。十数メートル前を歩いていた初老の男性が突然倒れたのだ。思わず駆け寄り、腕を抱えながら声を掛けた。「大丈夫ですか。どうなさいました」男性は、恥ずかしそうに、「大丈夫です。いやあ、少し飲みすぎたのか、足をとられました。本当に大丈夫ですから。ありがとうございます」立ち上がった男性は、ゆっくりと歩き始めた。男性が十メートルばかり離れられたとき、やっと周りの光景が目に入ってきた。男性に駆け寄ったのは私一人。周りの人々は、まっすぐ前を見て、足早に駅へと向かって歩いていた。私には、この光景が奇異に思えた。そして、このことを思い出すたび自分に尋ねてみるのだ。

私よ、新宿での光景を奇異に思える自分でい続けているかい。ネパールの人々から教えてもらったことを忘れてやしないかい。

 

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