家族、けど私は日本人。(氣田智子/H19年度4次隊・セネガル・青少年活動)

仕事を退職して参加した私は、任地に早くとけ込もうと“居心地のいい場所”を探していた。前任者が時々顔を出してご飯を頂いていたという家族を訪ねると、通常出てくる「あんたまだ言葉もわからないの? ○○はものすごくウォロフ語がうまかった。あいつはほ~んとにいい人だった。**もくれた。△△もくれた」というお決まりの嫌味が出てこなかった。

歩いて100メートルのその家を気に入った私も、時々ご飯をいただきに行くように。。。とは言っても日本人感覚。手土産を持っていったり、今週は二度もいったから遠慮しておこうと自分で制限してみたり。毎日セネガル食ということ以外、文句ない条件だった。

ある日、お母さんにこう切り出した「月々決まったお金を支払うので、ここで毎日ご飯を食べさせてください」
お母さんが激怒した。当時の乏しい現地語力では最初は何を言われているのかわからなかった私。フランス語もできる高校生の娘が加わって説明してくれた;あなたはもうすでにこの家の娘、私がご飯を食べさせるのが当然。お金を払うんなら食べさせない。お金なんて払わなくてよい! 毎日来なさい!」

こうして、私のセネガル食生活が始まった。家では通常客人と大人の男にはスプーンを出すが、私は断固として断った。結果、この家でご飯を食べた2年間、ずっと手で食べていた。セネガルでは一つの大皿に大勢で手を伸ばして食べていく。慣れない手づかみは、スピードも遅く、私は最初の頃毎晩口に入るご飯の量がこれっぽちで、空腹を抱えたままベッドに入った。商店もない町。家の冷蔵庫に何かあれば・・・たいていは水。それでも慣れない生活に疲れ果てて寝ていた。

しばらくすると、私の遅さを見かねた娘・嫁たちが、「ノガイ(私の現地名)は食べるの遅いから彼女の前の分はちゃんと残しておいてあげなさい」とチビたちを注意し始めた。ごめんね、私が来たばかりにあんたたち怒られちゃったね(笑)。

そんな家族は、決してお金持ちだったわけじゃない。普通の、持合せの現金はあまりない、セネガル的庶民=貧乏ではないけれど決して楽なわけでもない、それでいて笑いの絶えない幸せな家族だった。

そんな家族に目の病気を抱える女の子がいた。当時5歳、私のことが大好きだった。私はその子がご飯を食べている姿が大好きだったけど、セネガル文化ではちょっとお行儀が悪かったらしく、いつも大人に怒られていた。なんだかその子ばっかり怒られているように見えて、見ていてかわいそうでますますその子をかわいがるようになった。
おそらく日本なら抗生物質を投与すればすぐに治る目の病。5歳の子供にはその痒さが辛くどうしても擦ってしまう。「擦っちゃダメ、水で洗いなさい」とはいっても5歳の子供。「そうだよね、痒いよね、ごめんね。どうにもしてあげられなくて・・・」

病気に加えて擦りすぎたせいで、いつも目の周りがただれていた。
ある時、家族の写真を見ているとその女の子の目がまだ健康な姿がそこにあった。クリクリしたかわいい目で笑っていた。

「この子は、私が次に会う時まで目が見えるだろうか・・・」
そう考えると、自分が帰国する時に日本に連れて帰ろうとも悩んだりした。
この子にとって、一番いい選択ってなんなのだろう。
この子一人を連れて行くということは、私にとっては満足かもしれないけど、残された家族には「もっと頭のいい子が大学へ行くためにお金を使ってくれた方が」嬉しいのかも知れないのだ。途上国では体の弱い子、障害を持った人たちは、今でもある程度自然淘汰されていく。これが、現実だった。
私には勇気がなかった。この子を連れて帰らせてと言う、その勇気がなかった。

日本に帰国後1年を経て、恋しさに焦がれて任地に戻った。1ヵ月、ほんのわずかな滞在。お母さんの大きな体が、息が止まりそうなほど熱い抱擁で出迎えてくれた。誰ひとりかけず・・・反対に赤ちゃんが一人増えて、以前と変わらない家族がそこにいた。目の病気の女の子は弟が生まれて、お姉ちゃんになっていた。お母さん(これは私のお母さんからすれば、嫁)が赤ちゃんの世話をする分、女の子の家事を手伝う量が増える。やっぱりかゆい目を擦りながら、小さな体で家事を手伝う。でもまだ見えていた。

現地の薬がどこまで効くのか、わからない。
今頃は前よりも良い治療が受けられるようになったのか、わからない。
私ができることがもっとあったのかも。
せめて次会う時まで、私の姿が見えますように。

 

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