ブータンの村人から学ぶ事 (関 健作/H18年度2次隊・ブータン・体育)

ブータンへ来たばかりのころ、僕は日本人としての価値観や考えから彼らを見ていた。なぜもっと効率よく合理的に動かないのだろう、と思い、僕の考えを彼らに押し付けようとしていた。

しかし、彼らはそんな考えを持つ僕に対しても、優しく接してくれた。

「日本は日本、私たちは私たち」
彼らは自分達の生き方に自信をもち、劣等感をもっていない様子だった。

村人たちの祭りに参加した時のこと、はじめは彼らが楽しむ輪のそとから観察しているだけだった。しかし、彼らと一緒に家々を回る事で、徐々にその雰囲気を楽しめるようになってきた。
「村人みんなで法要をするってどんな感じですか?」
僕は、祭りに参加している一人の村人に思わず話しかけていた。
祭りも農作業も、みんなでやるんだ。気持ちが良いよ。今を楽しむんだ」
村人はこんなことを話してくれた。
「今を楽しむ・・・」
その言葉を聞いて、はっとした。
彼らが楽しんでいる横で、今後の活動への不安などが絶えず僕の頭をよぎっていた。僕は漠然とした不安をいつも抱いていた。
「これでは、今、この瞬間を生きていることにならないのではないか?」

日本での僕は、まわりの目や、人からの評価ばかり気にして生きてきた。知らず知らずのうちに競争している自分がいた。自分がどう生き残るかばかり考えて生活をしていた。
そんなことをしているうちに、他の人の幸せが喜べなくなっていた。むしろ、人の失敗を願ったこともある。そんな自分に罪悪感を抱き、人と接することが怖くなってしまったこともある。
そんな状態だったからこそ、ブータンに来たのは必然だったのかもしれない。
農民は僕とまったく違う生き方をしていた。彼らは特別な人たちではない。人との繋がりを何よりも大切にし、ほんの些細なことにも感謝ながら、みなで今を楽しんでいる人たちだ。
彼らはこんなことも言っていた。
「お金、名誉、地位、そんなものは、死ぬときに置いていかなければならないんだ。だったら、死ぬときも一緒である魂を磨いたほうがいいと思うけどな」
今を受け入れ、自分を生きている彼らと接するのは心地よかった。
驚きや戸惑いを抱えながらもそんな彼らと接しているうちに、本来の自分を出せるようになりつつあった。嫌なものは嫌と言ったし、怒りを感じたときはその思いをぶつけることもできるようになってきた。
いい人を演じる必要なんてない。そのままの自分でいることが僕にとっても相手にとっても楽だということに気がついた。彼らとの交流は、僕の心の治療にもなっていた気がする。
彼らはこんな言葉もかけてくれた。
「私たちにとって、仏教は昔のものではなく、今のもの。仏教を信じる(Believe)ではなく仏教を実行(Do)するんだ。いくらいい事を知っていても、実行しなければ意味がないってことだよ」

 

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