青年海外協力隊エピソードコーナー

青年海外協力隊創設50周年に向けた事業の一環として、2013年、協力隊員のエピソードコンテストを実施しました。結果として19点の入賞作品を選びましたが、それ以外にも印象に残る作品がありましたので、毎月数編づつ紹介します。
(掲載は順不同,敬称略)

震災をうけて (林田未央/H22年度3次隊・ミクロネシア・幼児教育)

2011年1月6日から2013年1月5日まで、ミクロネシアのポンペイ島に派遣されました。ポンペイ島一番の田舎に住んでいた私は、月に1、2回は都市へあがり、日本人に会って思いっきり日本語で会話をしたりネットでメールをチェックしたり、日本のニュースを知ることが楽しみでした。

教師の礎(山崎 丈/H2年度1次隊・ガーナ・理数科教師)

私には第二の故郷と呼べる場所があります。それは、ガーナ共和国セントラル州ケープコースト(現地名オグワー)です。そこには、約10ほどのセカンダリースクール(中高等学校)がありました。その一つケープコースト大学附属高校には、私が尊敬してやまないミセス・アダム校長先生がいつも威厳を持って、教員や生徒に接してくれていました。彼女は、最近日本人の教師が忘れかけた教育の本質を、私に示してくれました。

ブータンの村人から学ぶ事 (関 健作/H18年度2次隊・ブータン・体育)

ブータンへ来たばかりのころ、僕は日本人としての価値観や考えから彼らを見ていた。なぜもっと効率よく合理的に動かないのだろう、と思い、僕の考えを彼らに押し付けようとしていた。
しかし、彼らはそんな考えを持つ僕に対しても、優しく接してくれた。

家族、けど私は日本人。(氣田智子/H19年度4次隊・セネガル・青少年活動)

仕事を退職して参加した私は、任地に早くとけ込もうと“居心地のいい場所”を探していた。前任者が時々顔を出してご飯を頂いていたという家族を訪ねると、通常出てくる「あんたまだ言葉もわからないの? ○○はものすごくウォロフ語がうまかった。あいつはほ~んとにいい人だった。**もくれた。△△もくれた」というお決まりの嫌味が出てこなかった。

優しいシャボン玉 (浦 輝大/H18年度2次隊・バヌアツ・体育)

夕方に、ちびっ子メンバーが騒がしいと思って外に出てみると、ナッシーが空になったツナ缶の容器に洗剤を溶かしてその中にパパイヤの枝を突っ込んでストロー代わりにして、シャボン玉を作っていました。ナッシーが立っているのはウォータータンクを載せる為の足場のようなもので3メートルほどあります。下に居るメンバーは降って来るシャボン玉を一生懸命に取り合っています。

未だにわからない話(片桐佳子/H16年度3次隊・インドネシア・助産師)

私はインドネシアのバリ島東にある、ロンボク島のある地域で、助産師隊員として活動していました。村の診療所の分娩室にはベット一つと、バケツに汲んだ水があるところでした。

「苦労を話せば本が一冊書ける!」泣き虫生徒が女性起業家に・・・。その理由とは?(石坂貴美/12年度3次隊・バングラデシュ・染色) 

私はバングラデシュ政府の職業訓練所で染色技術指導を行っていました。ある日「夫に反対され、もう訓練を続けられない」と生徒が泣いていました。当国は女性の社会進出が遅れており、宗教や習慣によって外出が自由にできない女性もいます。

そうだ! うれしいんだ 生きるよろこび(塩飽康利/S61年度2次隊・エチオピア・農業土木)

私が1986年から89年にかけて、農業土木という職種でエチオピアへ行きました。なんたって1986年頃は「飢餓のエチオピア」で世界中に注目されていた時代でした。国連をはじめとし、多くの国から援助活動をする人や援助物資が入っていました。

タロウのこと(稲垣 仁/H4年度3次隊・ラオス・獣医)

青年海外協力隊員として2年間暮らしたラオスでの出来事です。「奇形の子牛が生まれた。肛門が無いんだ」という連絡があり、郊外の農場に往診に行くことになりました。診察すると、確かに子牛には肛門がありません。さっそく午後から手術をすることにしました。

未来のことはわからない。でも、大丈夫。(須藤基匡/H13年度2次隊・タイ・青少年活動)

マイサープナイアナコ、テーワーマイペンライ(未来のことはわからない。でも、大丈夫)。この言葉がゴールであり、スタートであり、今も心に残る宝物だ。私は大学卒業後3年半、少年院で勤務し、退職後参加した説明会で協力隊を志した。2度目の挑戦で合格し、タイ南部の少年院に派遣予定となった。

運命のポスター(込谷 晃/H10年度2次隊・フィジー・土木施工)

協力隊に応募したのは、かれこれ15年前にさかのぼる。当時、建設会社で5年目を迎え、土木の現場監督として、都内の下水道工事を担当していた。そんなに大きな目標があって土木を選んだわけではないが、なにか人の役に立つ仕事がしたいと大学で土木を専攻した記憶がある。

「余計なお世話」は世界標準?(大槻一彦/H3年1次隊・ネパール・理数科教師)

ネパールへ来て半年ほど経ったある日のこと。首都カトマンドゥへ数ヶ月ぶりに出てきた。友人に会うため、待ち合わせの店へ急いだ。この街には珍しいマウンテンバイクで。
 渋滞する道を過ぎ、ちょっと緩和した道に差し掛かり、少し速度を上げた。と、突然狭い道から車が顔を出した。

中国人学生の考え方(西條治子/H17年2次隊・中国・日本語教師)

よく学生から、「先生、通訳になるために必要な準備は何ですか?」とか、「日系企業はどんな人材を求めているのですか?」とか、「大学生の間に準備しておかなければならないことは何ですか?」など質問される。

日本人としての青年海外協力隊(森田裕子/H18年1次隊・ベトナム・村落開発普及員)

「お前はファシスト日本を知っているのか」
私は、2006年から2008年の2年間、ベトナムの首都ハノイより北東部へ60キロほどの省にある村役場に赴任した。そこで度々尋ねられたフレーズがこれである。

忍び寄るエイズの恐ろしさ(本間 敦/H10年2次隊・ザンビア・理数科教師)

私がザンビアに赴任した時は、ザンビア人の平均寿命は43歳でした。その頃も4人に1人はエイズに罹っている(HIVを持っている)と云われていました。私が赴任していた学校でも例外に漏れず、私が滞在していた2年間で学校関係者が5人も亡くなりました。

我が心のふるさとレイテ島(中谷政義/S54年度1次隊・フィリピン・畜産)

任地はレイテ島でした。太平洋戦争最大の決戦場となった島です。赴任したのは終戦後30年も過ぎてからです。見た目からはかつての激戦の模様は想像もできませんでしたが、人々の心には、消え去ることのない様々な思いが満ちていました。

夢は願い続ければ叶う日が来る(小松 佳央梨/24年度1次隊・ベネズエラ・音楽) 

青年海外協力隊になる運命的な出来事と出合ったのは大学4年生の時。それは、大学の英語の授業の課題だった。「この英字新聞の記事を全訳せよ」と出された課題は「ベネズエラのエル・システマ」について書かれていた。

アラーがくれた友人(北原 三代志/H15年度1次隊・バングラデシュ・体育)

任期修了まであと残す期間が3ヶ月余りとなったある日、「約2年間暮らしたバングラデシュの記念に何を日本に持って帰ろう」と考えていた。自分の部屋に飾れて、この国を思い出せる品物がいい。

ブルース・リーになってしまいました(大森敦之/H6年度1次隊・モロッコ・電気設備)

協力隊のプログラムには、着任後すぐに実施する国内ホームスティという制度がある。自分の任国を知るというのが目的だ。右も左も分からない中で、海に近い町の雑貨屋にホームスティすることになった。

心のバリアフリー(太田智之/H17年3次隊・ネパール・経済・市場調査)

始めはただの虫刺されでした。ある日、右足のふくらはぎに赤い点ができていました。1週間が経ち、10日が経つうちに、それは赤く腫れ上がり、赤黒い粘液を出し始めました。当初は軟膏をつけて対処していましたが、赴任して1年半が経ち、活動も佳境に入ってきた頃で、毎日のように村を歩き回っていたせいか、膿が生成されるスピードに軟膏の効果が追いついていないのは素人にもわかる状況となっていました。

人々の声を聴き続ける~協力隊だからできること(田村雅文/H17年1次隊・シリア・環境教育)

2005年7月から2年間、シリアのダマスカスが赴任先だった。日本へ戻った後も、赴任時代からのシリア人の友人達とよく会い、懐かしい話で盛り上がった。2011年3月からのシリア国内の混乱で、彼らは家族を心配しながらもシリアへ帰ることができなくなった。

大地が落ちたあの日から(太田 旭/24年度2次隊・グアテマラ・栄養士) 

「栄養士になれた!」嬉しかった。お金持ちではなかったので隠れてアルバイトをしながら忙しい毎日だった、そして目標の一つが叶えられたのだ。晴れ晴れとした気持ちで卒業式を終えた。でも、私が取り組みたいと思っている栄養失調児のためのケアができる就職先が日本では見つけられない。それ以前に、栄養失調の子どもの集団というのを聞いたことがなかった。

ぷらびだ(角 彰輔/H16年3次隊・コスタリカ・村落開発普及員)

コスタリカ独特の挨拶に「Pura Vida(プラ・ビダ)」という表現がある。日本語に訳すと「自然体な人生」となるだろうか。

一本の電話(小林 由香里/H21年度1次隊・パナマ・村落開発普及員)

私は、国内で最貧困地域といわれるノベブグレ先住民自治区に町から通って民芸品開発をしていた。そこで一緒に活動をしていた組合のリーダーは、プリペイド式の古い携帯電話を持っていた。インフラが整備されていないこの地域では、山を登って電波を探さなければならず、雨が降ると電波を探せない上、彼女にとってプリペイドカードはとても高価なものであった。

ミヤギナカガワ(中村晃一/H16年度3次隊・フィリピン・溶接)

私が派遣されていたフィリピンの町の学校で、スタッフがよくミヤギナカガワという変な言葉を言っているのを聞きました。そんな単語、現地語訓練でも習ったことないのに・・・。でも、よく聞くなあと不思議に思っていたものです。

調節する力(青木 はつ江/H15年度1次隊・タイ・作業療法士)

タイに赴任した始めの頃、私は、自分のアパートや職場によく現れるヤモリを毛嫌いしていた。見るだけで私の顔に嫌悪感が浮かび上がる。職場でもヤモリの姿にいちいちびっくりする私に、同僚ティムは言った。

シリア人が順番抜かしをされても怒らない理由(成山博子/H19年度1次隊・シリア・環境教育)

首都ダマスカスからトルコ国境に近いシリア第2の都市アレッポに行くことにした。ダマスカス中心部にある長距離バスチケット売り場でチケットを買うため、隊員仲間と一緒に列に並んでいた。連休にアレッポに向かう人が多いようでチケットを買う人の列は長く、シリア人も大人しく順番を待っていた。

幼稚園での絵本の読み聞かせ活動を通じて(齋藤 さおり/H17年1次隊・ホンジュラス・青少年活動)

ホンジュラスの未来を担う子ども達が幸せに過ごせるようにお手伝いしたい。赴任してから1年、悩んではじめた私の活動は、幼稚園での読み聞かせでした。先輩隊員と今後の活動について話をしていた時、ホンジュラスには本が少なく子どもが自由に読めないこと、また小さい頃から本に親しんでいないために読解力が弱いことに気づき、図書館で借りた絵本を持って任地ラパス市内の幼稚園で絵本タイムを始めました。

愛されるための自立(三牧由季/H22年度1次隊・ネパール・ソーシャルワーカー)

ネパールの知的障碍者家族会を中心にボランティア活動していた私は2年間の任期が間もなく終わろうという頃、現地の言葉で伝いたいことを伝え、やるべきこともやり、いい2年間だった。と自信を感じながら残りの活動に奮闘していました。

スズキ? ホンダ? トヨタ?(鈴木健太/H21年度1次隊・カメルーン・小学校教諭)

私の任国は、アフリカの中央にあるカメルーンという国だ。特に、観光もなく、産業もない。どこにあるのか分からない。だけど、みんな知っているカメルーン。その理由は、サッカーである。2002年の日韓ワールドカップ。カメルーン代表は大会開催前にキャンプ地大分県中津江村に5日間遅れて到着し話題となった。カメルーンというと誰もが連想するエピソードである。

ミャンガンマルタエ (谷口昌子/H18年度1次隊・モンゴル・デザイン)

「ミャンガンマルタエ」という言葉がモンゴルにある。直訳すると「(家畜)千頭持ち」という意味で、所有する家畜の数が多い遊牧民、つまりは日本語でいうところの「百万長者」に通じる。2006年にモンゴルの国立美術大学に講師として派遣された私は、この言葉を本当に頻繁に使っていた。

ページの先頭に戻る