ジャーナリスト 現地ルポ

 東北避難所のOBを訪ねた 
~なぜ日本の被災者は、外国から称賛されるほど秩序を保てるのか

中日新聞新宮支局長 吉岡 逸夫 [協力隊OB(昭和47年度1次隊/エチオピア/映像)]


自宅避難民にも食糧を届ける芳賀正彦OB
自宅避難民にも食糧を届ける芳賀正彦OB
(吉里吉里にて) 


 東日本大震災の被災地のひとつ岩手県大槌町吉里吉里に住む協力隊OBの言葉が、あるブログに紹介されていた。

 「家族は全員無事です。協力隊を終え、35年前に体ひとつでの生活を、この町で始めました。当時、親戚・知人は皆無。疲れを知らぬ体だけを持っていました。すべての物を失った今、それでも私には心かよう仲間が大勢います。廃墟の町に立ち、35年前に戻っただけのことなんだと自分を慰めています。援助物資、必要なものは何もありません。欲しいものもありません。大津波で犠牲になられた方々に、日本各地の空の下より、みなさんの合掌をお願い申し上げます。吉里吉里の海は今日も穏やかです」

 OBの名は芳賀正彦(62歳)。47年度1次隊、エチオピア、車両整備。津波で自宅はほぼ全壊し、仕事も失い、今も避難所生活をしている。文章は、われわれ協力隊の仲間にあてたメッセージだった。

 話を聞く中で、人口約2,500人の吉里吉里は驚くべき住民自治の精神を持った地域であることが分かった。


 避難所には、行政の担当者は一人もいない。すべて地元の人たちだけで運営している。それは、震災当日から始まっていた。震災の夜、自分たちで対策本部を立ち上げ、役割分担を決めた。住民同志の気心は知れているから、決めるのにもめることもなかった。翌日には、国道のがれきを撤去し、ヘリポートを作り、ガソリンを確保し、食事の分配まで始めた。ガソリンスタンドやコンビニなどの店は崩壊していたが、物資や重機やパソコンなど、必要なものは住民が持ち寄った。ヘリポートができていたので、すぐに自衛隊を迎えることもできた。 


協力隊OGがエアロビクス
 協力隊OGがエアロビクスや体操
を指導 (吉里吉里の避難所で)

 なぜ、住民の団結力が強いのか。その理由を被災者の一人、元新聞販売店の店主芳賀広喜さん(63歳、友人の親戚ではない。当地では芳賀姓が多い)は「大槌町中心部から峠を隔てているので、昔から何でも自分たちでやるんですよ」と説明する。そして、当地に伝わる「吉里吉里善兵衛」の伝承を教えてくれた。善兵衛は江戸時代に南部藩で財を成した企業家だが、大凶作や津波の時、私財を投げ打って被災者を助け、雇用したという。その善兵衛の心は今も吉里吉里に残っているというのだ。

 記者は、約120人いる避難所に二晩泊めてもらったが、そこは整然とし、ゆったりとした空気が流れていた。夜は静かで、大きないびきをかく人さえいない。

 「朝起きたら、隣りに顔見知りの人たちがいて、声を掛け合うと気がまぎれます」と被災者の一人阿部君代さん(68歳)は話す。「2カ月近くになるが、泥棒やけんかは全くありません」ともいう。役員らは、避難所だけでなく、自宅にいる避難民にまで物資を届けることまでやっている。

 私は友人に、どうして「何も要らない」という心境になったのか聞いた。彼は「欲しい物があれば、救援物資として翌日には届けてもらえる。金は、本当はのどから手が出るほど欲しいよ。でも、金は自分で働いて稼ぐもの。そう両親に教えられた」という。そして、彼は、老後のための貯金を使い、すでに家の建て直しに着手している。

「一人でも早く避難所を出れば、スペースがとれる。真っ先に自立し、皆を引っ張っていきたい。いざとなれば、金を貸してくれるぐらいの仲間はいるさ」と笑う。こういう人間がいるから、これまでも日本は危機を乗り越えられてきたのだと思った。


ガレキと化した吉里吉里地区
ガレキと化した吉里吉里地区(岩手県大槌町で)

 

 芳賀さんは福岡県出身。協力隊に参加したのは24歳の時だが、3カ月の訓練生活で大きなモノを得たという。そこでさまざまな分野の若者と出会い、田舎から出てきた自分が彼らと友情を結ぶことができたことが、大きな自信につながったのだという。そして、エチオピアに派遣され、最初は、エチオピア人を好きになれなかったが、言葉を覚えるにつれて、人種は違えど彼らも同じ人間と思えるようになってきた。以後、芳賀さんは自分のやり方でいいのだと確信し、細かいことで悩まなくなった。

 その思いは、結婚して吉里吉里に住むようになっても変わらなかった。彼は自然の残る当地が気に入り、どうせここに住むなら、名前を当地の名にしようと、奥さんの姓に変えた。最初は、「旅の人」「九州の人」「光子先生(奥さん)の旦那さん」といわれていたが、十年、二十年と過ぎるにつれ、「正彦さん」と呼ばれるようになっていった。今では、だれも芳賀さんを他所の人とは思わなくなっている。それどころか、PTAの会長や町内会長などもやり、町の世話役の一人となっている。この現地に溶け込んで行く姿は、正に協力隊精神の本道を行くものだ。

 芳賀さんの見事なことは、これまで同地でエチオピアや協力隊経験を話すことはめったになかったことだ。この震災で、JOCAのボランティアを受け入れ、避難所に協力隊のOBやOGが入ってきたことで、住民たちは芳賀さんが元協力隊員であったことを知り、アジアやアフリカなどにボランティアで行く若者の存在をリアルに知ることになったのである。前述の元新聞販売店店主はいう。「協力隊って、素晴らしい人たちですね」。

 私は、協力隊経験とはそういうものだと思っている。表だって見せないことで、その体験は「宝」となる。 


整然と並ぶ避難者たち
食事のときには整然と並ぶ避難者たち
(吉里吉里の避難所で)

 

 芳賀さんのブログの言葉の謎は解けた。だが私にはもう一つ疑問が残っていた。それは、「どうして日本の被災者は、外国から称賛されるほど秩序を保てるのか」ということ。

 阪神大震災の時もそうだったが、確かに、日本の被災地では略奪や窃盗は少ない。避難所での態度は静かだし、炊き出しなどにも従順に列を作って整然と待っている。もちろん、日本の被災地でも火事場ドロボーはいる。しかし、それは外国に比べると、比較にならないほど少ない。海外からの賞賛に、多くの日本人は、「当たり前のことなのに」と意味がよくつかめないでいた。その感覚の違いは何だろう。

 福島原発の処理に対応する自衛隊員や消防署員らの活躍は、海外から「サムライ」と褒められた。もちろん武士道の影響もあるだろう。また礼節を重んじる儒教の影響もあるかもしれない。だが、ベースには農耕文化が色濃く反映しているように思う。

 実はそのことは、吉里吉里に来て思った。日本人の秩序を保つ拘束力は、こうした地方の奥地から培われてきたのだと思う。奥地へ行けば行くほど、生活の中で農耕の占める割合は多くなる。田植えをするのも稲刈りするのも、田んぼに水を引くのも、すべて一人ではできない共同作業。抜け駆けはできない。他人を思いやる心がなくては、その社会では生きていけない。

 漁業も同じ。日本の漁業は、小説「老人と海」や「白鯨」のような個の世界とは違う。巻き網漁やクジラの追い込み漁のように、何隻もの船が一緒に漁をするケースが多く、市場も水産加工場との連携も強い。農耕文化の影響で、それはサラリーマン社会にも根付いている。

 静まり返った避難所の夜、そんなことを考えながら眠りについた。 



 

吉岡逸夫

吉岡 逸夫(よしおか いつお)
 

中日新聞新宮支局長。現在JOCAの理事で協力隊OB(S47-1/エチオピア/映像)。愛媛県出身。米国コロンビア大学大学院ジャーナリズム科修了。東欧の激動、湾岸戦争、カンボジアPKO、ルワンダ内戦、アフガンやイラク戦争など60カ国以上を取材。93・94年東京写真記者協会賞、96年開高健賞、97年テレビ朝日やじうま大賞を受賞。著書に『漂泊のルワンダ』(牧野出版)『なぜ日本人はイラクに行くのか』(平凡社)など多数。ドキュメンタリー映画「アフガン戦場の旅」「笑うイラク魂」「戦場の夏休み」などを監督。
 


 

 


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映画「ザ・コーヴ」が昨年、アカデミー賞を受賞したことで、映画の舞台となった和歌山県太地町(人口約3,500人)が揺れた。近隣に住む著者が、映画や反捕鯨活動の嘘と欺瞞を暴く。映画の主人公やシーシェパード幹部、太地の漁師、水産庁、果ては、太地と同じクジラの追い込み漁をするデンマークのフェロー諸島にまで取材は及び、事実が明確に浮かび上がってくる。
 

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